Shozo Yoshida - Universita' di Nagasaki


「規制緩和」的司法改革と市民のための司法 - Ciao!

「市民の、市民による、市民のための司法」と「日独裁判官物語」


長崎の2回の上映会について

 記録映画「日独裁判官物語」がそのシリアスな題名と内容にもかかわらず全国的の上映会で好評と支持を得ているらしい。司法改革との関連で各地の上映会が新聞やTVで報道されている。日本民主法律家協会の発行する法律雑誌『法と民主主義』は、10月号でこの「日独裁判官物語」の特集をくんだ。特集には、映画の誕生のいきさつ、監督が語る裁判官論、全国の上映会のレポートなどが掲載されている。記事の中には編集部からの依頼で私が書いた長崎実行委員会の上映会報告もある * 。長崎では、7月30日に私たちが開いた長崎上映実行委員会の上映の後も11月13日に長崎県弁護士会が開催した集会でも上映された。他にも映画を鑑賞された方々から上映方法等についての相談を受けたりしているのでこれからも長崎でこの映画を鑑賞できる機会があるかもしれない。

 これまでの2回のうち実行委の上映会には120名の参加者、弁護士会のものには500名以上の参加者があった。弁護士会の心配にもかかわらず定員500名の会場に入りきれない参加者があったのは、中坊公平弁護士の講演目当ての参加者という要因もある。さらに前者が1000円の参加費をとったこと、後者は無料であったことも影響している。私たちが共催した実行委上映会の方が参加者が少ないから負け惜しみで言うわけではないが、上映会の持ち方についてこの映画の監督はなんと語っているかを紹介しておこう。片桐監督は、「無料にして大衆に見せてやる、啓蒙していくという姿勢があると、かえって弁護士会と一般市民の溝をつくってしまう。やはり有料にして、市民団体や一般の市民も参加した上映実行委員会を作り、映画と同時にフォーラムなどをやることが改革運動につながっていくと思います。」** とインタビューで述べている。それはともかく、司法改革と題した集会に多数の市民が参加したこと、司法改革に対する市民の関心の高さは特筆すべきことである。また両方の集会に参加したというリピーター、「日独裁判官」のファンも生まれている。


法曹一元か、司法官僚制の改革か?

 実行委員会の上映会については上記拙文を読んでもらうことにして、ここでは弁護士会の集会について若干の感想を述べたい。この集会では、前半に「日独裁判官」の上映、後半で中坊公平弁護士が「司法改革ー登山口と登山道」と題して講演した。いずれも司法改革を問題にしているのであるが、そのメッセージはかなり異なっている。厳密に言うと司法改革の方法としては、前半と後半がミスマッチなのである。「日独裁判官」は、ドイツの司法改革、市民に開かれた裁判所を日本の官僚司法制度との対比で描いている。ドイツでは、日本と同じく職業裁判官制度、キャリアシステムをとっているのであるが、それを前提にしてもドイツが60年代後半からすすめたように改革は可能なのである。日本について言えば、司法改革で最も優先する必要があるのは最高裁事務総局による裁判官統制の廃止と裁判官の市民的自由の保障であるということになる。

 それにたいして、中坊講演は、司法改革の登山口として、弁護士改革を提起した。弁護士改革の理念と内容は、弁護士ニーズ拡大論、弁護士増員論、弁護士への競争原理の導入論であり、改革の中心課題は、法曹一元の実現であった。***

 英米のような弁護士から裁判官を選ぶ法曹一元制度と独、仏、伊や日本が採用しているキャリアシステムがある。確かに法曹一元は優れた制度ではある。しかし、法曹一元が実現しなければ市民のための司法は実現しないということはないのである。「日独裁判官物語」が具体的に示したドイツのようにキャリアシステムのままでも改革次第では市民の権利を守るための裁判所をつくることができるのである。ドイツでは司法が立法や行政の権力から市民の基本権を擁護する役割を果たしているし、裁判官の市民的自由は認められている。

 7月27日に発足した司法制度改革審議会は、月二回の会議を開催し、来年からの本格審議に向けて勢力的に審議をすすめている。中坊弁護士の言葉で言えば、司法改革の登山口と登山道は複数あるとしても2年間で結論を出そうというわけであるから、どのようなルートで頂上を攻略するのか、改革全体の総合性と優先順序は、戦略的に重要である。官僚司法制の改革を中心にするのか、法曹人口、とくに弁護士の増員を中心にするのかが問われている。


規制緩和的「司法改革」と市民のための司法改革

 現在進められている司法改革の性格を一言で言うと、規制緩和的「司法改革」ということができる。**** 規制緩和をした後の社会では、政府による事前規制に代わって司法による事後規制が中心になる。すなわち「大きな政府」と「小さな司法」から、規制緩和を徹底することにより「小さな政府」と「大きな司法」に転換するというのが規制緩和的「司法改革」の位置付けである。

 規制緩和的「司法改革」論が要求していることは、これまで私たち国民が、「司法の民主化」という言葉で要求してきた内容を部分的には含んでいる。たとえば、経済同友会の司法改革に対する意見には、個人優先社会、法律扶助の拡大なども含まれている。規制緩和的「司法改革」は、市民のための司法を標榜することもある。しかしそれは「規制緩和」論が、財界、大企業の利益を追求するものであるにもかかわらず、「消費者の利益」を掲げて進められたことと同様の現象である。市民のための司法改革と財界のための司法改革は、同じ言葉を使いながら、その目指すところは全く異なったものとなっている。

 法曹一元を中心とする中坊司法改革論は、規制緩和的「司法改革」に対して有効な対案となり得ているだろうか?私は、同集会での講演を聞いて、司法改革を論じるのに弁護士自身から改革する必要があるというのはかっこはいいが、弁護士への競争導入論、弁護士ニーズ拡大論、弁護士増員論などの規制緩和的「司法改革」に対してあまりにも無警戒ではないかという不安を覚えた。


* 拙稿, 市民に開かれた裁判所をつくりたい!, 法と民主主義 1999.10, n.342, p.30.

** 片桐直樹監督に聞く『日独裁判官物語』は何を目指したか, 法と民主主義 1999.10, n.342, p.22.

*** 当日の講演内容は、集会の直前に発表された中坊公平「私の司法改革・金権弁護士を法で縛れ」(文芸春秋 1999.12)とほぼ同旨である。

**** 規制緩和的「司法改革」という批判について、本間重紀, 規制緩和と「司法改革」, 法と民主主義, 1996.01, n.305, p.3. 民主主義科学者協会法律部会のHomePage・司法特別研究会


長崎大学教職員組合「もってこ〜い」1999.12, n.4


04 gennaio 2000

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