学部長挨拶
学部長挨拶
長崎大学経済学部長
井田 洋子
(IDA Yoko)
「個人史と歴史、そして社会における両者の交差という問題に立ち戻ることなくして、社会をめぐる研究はその知的冒険を全うすることはできない。」(C.ライト・ミルズ)
上記は、アメリカ合衆国の社会学者C.ライト・ミルズ (1916-1962) の『社会学的想像力』の一説です。彼が提唱した「社会学的想像力」は、当時のアメリカ社会に多大な影響を与えただけでなく、現在もなお、社会学をはじめ経済学、政治学、法律学等、社会を研究対象とする社会科学全般を学ぶ者に求められる力として認識され続けています。ミルズは、いわゆるグランドセオリー (あらゆる領域に適応可能な一般理論) や抽象化された経験主義を批判し、個人的体験を自身が属する社会の状況ないしは社会構造と結び付けて思考する態度を奨励したわけですが、この考え方の根底には、活きた学問を志向する実践主義 (プラグマテイズム) の哲学が横たわっているとも理解されています。そして、そうだとすれば、この「社会学的想像力」こそは、長崎大学経済学部が1905年の創立以来、一貫して目指してきた「実践的エコノミスト」の育成の通奏低音をなしていると言えるでしょう。
さて、ニューヨークの貿易センタービル爆破事件で幕を開けた21世紀の社会は、四半世紀が経とうとしている今日、ますます混迷の度を深めているように思えます。なかでも、2011年3月11日の東日本大震災及び福島第1原子力発電所事故、2019年秋以降に出現した新型コロナウイルス (COVID-19) によるパンデミックの発生、2022年2月24日のロシアによるウクライナ軍事侵攻に端を発するロシア・ウクライナ紛争、2023年10月7日のイスラム原理主義組織ハマースの暴力行為を契機とするガザ地区をめぐるハマースとイスラエルの武力闘争等、あたかも我々人類の叡智や良心を試そうとするかのような事態が立て続けに発生しています。
他方、SNSの普及やAI技術の目をみはるような進歩は、我々の言論空間や学問環境に劇的な変化をもたらしています。事実、「表現の自由」を盾にした、主にSNSを媒介とするフェイクニュースやデマの拡散は、世界各地で、それが選挙結果を左右するほどの恐るべき力を持つことを証明するだけでなく、取り返しのつかない人権侵害をも再生産しています。また、生成AIの登場は、学問の醍醐味である「思考する」「想像する」という行為それ自体の意義や批判的精神を持つことの重要性を、我々に改めて問い直す必要性を自覚させるものとなっています。さらに、近年、日本でも広がりが指摘されている「反知性主義」の横行もまた、大学の教育や研究に対する挑戦と捉えるべきでしょう。
大学は、健全な懐疑心や好奇心を糧に学究を行う場所です。我々大学人は、幅広い教養と確かな論理に裏打ちされた専門知の継承と伝達、真理の追求や新しい知の創造を、学生たちと目指したいと思います。同時に、学究活動の根底には、人類を含む生物多様性に対する理解と、いかなる権力にも縛られない自由で柔軟な精神が求められるという点についても強調したいと思います。それだけでなく、大学の4年間は、間違いなく皆さんの人生においてもっとも自由で融通が利く期間といえます。だからこそ、この4年間のうちに、勉学に限らず様々な経験を積み、それらを通して自身の世界を広げることを期待します。
2025年は、長崎大学経済学部の創立120周年の年であり、また長崎という場所にとっては被爆80年という節目の年となります。こうした記念すべき年にあたり、長崎大学経済学部に籍を置く現在及び将来の学生の皆さんには、みせかけではない真の専門知の獲得と物事の本質を見抜く力を養ってほしいと思います。さらに、皆さんには、自らの「社会学的想像力」を大いに駆使して自身の経験を長崎、日本、そして国際社会の歴史の文脈の中に関連づけた上で、この世界が直面している様々な課題に対して、より良い解を見つけるべく思考を巡らし、また深めることを期待します。
経済学部長/経済学研究科長 井田 洋子